(実話)インド プネの博物館にあった日本の軍刀について
プネの旧市街を散策していた時のこと。
たまたまGoogleマップに、観光スポットとして小さな市役所の建物が表示されていた。
なぜ市役所が、観光スポットなのかと三毛は不思議に思った。
ちょうど近くにあったので、行くことにした。
敷地の中に入ると、市役所の脇に小さな路地があって、観光客用に矢印のサインがあった。
Googleマップの観光スポットも、拡大すると矢印の先にある広場を表示している。
そこは植民地時代の刑務所だった。
インド独立のために最初に立ち上がった地元の英雄が、絞首刑にされた場所だったのである。
刑務所は天井が崩落していて、廃墟と化している。
奥に小さな記念館があって、絞首台を展示していた。
その記念館に入ると、右手に小さな事務所があって、役場の職員が常駐している。
壁には地元の英雄のレリーフと共に、何本かの武器が展示されていた。
西洋のレイピアや、インドの曲刀の他に、なぜか日本の軍刀が展示されていた。
博物館の職員と話をすると、これは地元の老婦人から寄付されたものなのだという。
第2時世界大戦時に、日本軍の将校がインドで人を殺してしまい、その時に身につけていた刀だという。
その将校は、何らかの形で、現地で殺されたのだという。
インド北東部のインパール地方ならあり得る話だが、ここは戦地から遠く離れたインド洋に近いプネ。
ムンバイまで日本軍が来ていたとは思えないので、インパールで戦っていたインド人将校が戦利品として実家に持ち帰ったものだろうか?
この場所にきた日本人は、今までで三毛が初めてだという。
どうやってこの場所を見つけたのか聞かれたので、Googleマップを見せて観光スポットとして紹介されていたと説明する。
三毛の祖父は、通信兵として満州事変と、ビルマ出兵の2回、戦争に行っている。
ビルマ出兵ではインパール作戦の後詰めとして、通信部隊にいたそうだ。
インパールでは、無能と評される牟田口中将の指揮のもと、10万人の日本兵のうち、7割以上が戦死・負傷した。
制空権や補給の概念がなかったこと、精神論だけの机上の作戦だったのが原因である。
その内訳は戦死者3万人、負傷者4万人という信じられない数である。
中公文庫が出している「失敗の本質」というベストセラーがある。
戦争の詳細はこの本に記されているので、関心のある読者は是非読んでみてほしい。
祖父は通信兵として大事に保護され、捨て駒として最前線にいなかったので、運よく日本に帰ることができた。
私には、これは何かの巡り合わせのような気がした。他に兵士の持ち物はないという。
軍刀の持ち主を確かめるための術は、もはやなさそうだ。
この日本刀は素焼きのスプリング刀で、日本刀としての鍛錬はされていないものだった。
仮に日本に持って帰ったとしても、日本刀として登録証が発行されることはなく、入国時に破棄される運命だろう。
名前などの表記はないし、金具の付属番号から持ち主を特定するのも難しい。
せめてこの軍刀を錆びさせないように、展示館の職員に刀の手入れ方法について教えてあげた。
日本から遠く離れたインドのプネで、戦争の記憶として展示してもらうのがいい。
それが祖国のために亡くなられた、英霊の供養にもなるだろうと思った。
職員には、三毛のブログでこの日本刀のことを紹介すると言って、その博物館を後にした。
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