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烏魯木斉の玉石市場

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烏魯木斉の玉石市場 ウイグル自治区の省都、ウルムチにやってきました。 20年前と比べると、街はさらに中国化しており、中華建築や高層ビルが目につきます。 街中は再開発中で、ウイグル建築物の解体作業が至る所で進行中でした。 でも街を歩いている人々は、当時とさほど変わりません。中国人よりもウイグル人の方が多く目にします。 ウイグル人はテュルク系民族で、黄色人種の漢民族とは全く異なる風貌をしています。 トルコ人に似た彫りの深い白人で、ヨーロッパ風の美男美女が多いです。 でも彼らの話す公用語は中国語なので、奇妙な感覚を覚えました。 こういう光景を見ると、いよいよ西域の国にやってきたなという実感が湧いてきます。 市内に玉石のバザールがあるというので、行ってきました。 露店ではなく、古い商業ビルの中にありました。このビルが全て、玉石の商業施設というのはさすが中国でスケールが違います。 (通路に置かれた和田玉の巨大な原石) (建物内の玉石バザール) (バザールの風景) 絨毯を担いだ男性に話かけたところ、タジキスタンから玉と絨毯を売りにきたと言っていました。さすがはシルクロードです。 (展示されている玉の美術品)

手織り絨毯を探す旅 序章

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手織り絨毯を探す旅 序章 私は昼寝が好きです。 ご飯を食べた後、こたつに横になってウトウトするのは、お金もかからず手軽にリラックスできる庶民の贅沢です。 その昼寝の時に、床に敷くクッションがありませんでした。クッションといえば、絨毯がいちばんです 。 丈夫な手織り絨毯がほしいと思ったのが、2018年の4ヶ月にわたる中央アジアの旅のきっかけでした。 何十年も昔、初めて中国の新疆ウイグル自治区を旅行したときに、座布団サイズの絨毯を買ったことがありました。 買った場所は、和田(ホータン)というタクラマカン砂漠の南にある小さな町の絨毯工場です。 わたしは当時まだ大学生で、大きなサイズの手織り絨毯を買うお金などありません。 そこで、一緒に旅をしていたシンガポール人の友達に中国語で値切ってもらい、50ドルぐらいの、バラと唐草模様の絨毯を買いました。 絨毯の専門知識は、全くありませんでした。ただ絨毯に使われた羊毛が長く、ふかふかしているのを気に入りました。 日本に持ち帰って座布団がわりに使えば便利かなと思ったのが、購入の理由でした。 あれから40年近く使用していますが、とても丈夫で、糸がほつれた箇所はありません。良い買い物でした。 中国の絨毯は、中国段通と言われています。特にホータンの絨毯は、使用されるウールの毛が長く、厚みがあるのが特徴です。 絨毯といえば、世界的にはイランのペルシャ絨毯が有名です。 中国段通は、3000年以上前にイランからシルクロードを通って中国に伝わり、そこで独自の製法が確立したと言われています。 つまり絨毯の作り方が違うのです。 ペルシャ絨毯は縦糸と横糸を交互に結んで、ノットを作ってから編み上げます。 一方の中国段通は、横糸を縦糸に通すだけで結んでいないのです。だから耐久性に劣ると言われますが、メリットもあります。 絨毯を職る人が、結び目を省くことで早く作れ、値段が安く作れるのです。 今回、シルクロードを再訪する上で、ペルシャに近い国である中央アジア諸国で絨毯を買いたいと思い、中国の重慶に飛びました。 (続く)

ミャンマー 骨董品の漆器を探して バガン⑦

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ミャンマー 骨董品の漆器を探して バガン⑦ 下塗りの後に、手彫りで細かな彫刻を施し、仕上げの塗料を塗るのがバガン漆器の特徴です。 指導教官が目の前で、彫刻の実演をしてくれました。長年の経験で、頭に思い描いた絵柄を思い通りに彫刻します。迷いなく動き、下絵は一切ありません。 ミャンマー人指導教官の年季の入った両手の指が、物を作り出す手が凄みを感じます。改めて写真を見ると、ものづくりの職人は素晴らしいと感じました。 日本の香川県の伝統工芸品である香川漆器が、同様の蒟醤(きんま)技法を用いています。 この工房では小物の漆器では、20ドル位からありました。ミャンマーの伝統を生かした自然素材や、制作の手間暇を考えると、この値段は安いと思います。 街中の土産店で売られている10ドル以下で買える、妙にテカテカ光る安っぽい塗料のミャンマー漆器とは全く質感が違いました。 バガン漆器の伝統が、国立学校の設立で後の世代に継承されている事実を目の当たりにできました。 残念ながら、この工房では骨董品の漆器販売はありませんでした。 感謝の気持ちも込めて、蒟醤漆器を何点か購入して、工房を後にしました。 (次回へ続く)

ミャンマー 骨董品の漆器を探して バガン⑥

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ミャンマー 骨董品の漆器を探して バガン⑥ 指導教官のミャンマー人漆芸家が開いている工房に行きました。 場所はバガン市街の街道沿いにありました。観光客向けに商品を展示してある平屋建ての商店と、教官家族が暮らす自宅が2軒並んで建っています。 外国人観光客のバスが停車できるように、駐車場も備えた大きな敷地でした。 漆芸学校の先生からの電話で、私の訪問連絡を事前に快諾してくれた指導教官本人が応対してくれました。 50歳ぐらいの老眼メガネをかけた細身の男性です。知的な顔つきで、ミャンマー伝統の男性用布スカートであるロンジーを見事に履きこなしていました。 日本の着物もそうですが、民族固有の衣装を普段使いしている人は、本当にかっこいいと思います。 店舗の一角に漆器製作のブースが設けられていました。 作りかけの漆器が手順ごとに並べられて、外国人観光客向けに説明しやすいように展示されています。 写真左上に砂岩とそれを砕いた粉が灰色のプラスチック容器に入っています。 ミャンマーの伝統的な漆器には、下地に粘土質の土と木屑、漆を混ぜてものを最初に下地に塗っていきます。 写真左下の工程の始まりとなる、下地が竹でできた器にご注目ください。一番底の部分に穴が空いています。 塗料を塗った後、底に溜まった余分な塗料を、穴から自然に排出できるように、指一本分の空洞が残っています。 この工房の器は10回の塗り工程を経て作られています。下の段の左から右に行くごとに、塗りの回数が増えていきます。 中段の右から左にかけて凹凸がなくなって、表面が研ぎ澄まされているのがわかります。 中段の左から2つは最後の仕上げの部分で、上質な黒漆を塗ってあります。そして完成です。 どのくらいの期間が必要なのか指導教官に尋ねたところ、器の大きさと素材によって微妙に異なる。 この竹素材の器だと塗りの都度、乾燥させる必要があるので1ヶ月ほどかかると言われました。 本当に根気のいる作業です。 (次回へ続く)

ミャンマー 骨董品の漆器を探して バガン⑤

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ミャンマー 骨董品の漆器を探して バガン⑤ 教室の奥にある棚に、竹で編んだ下地の完成品が並べられていました。 花瓶状の下地が3つ、皿状の下地が50枚以上重ねられています。 接着した部分を乾燥させ、硬く丈夫にさせることで下地を強化しているようです。 それから塗りの作業となります。 上の作品は仕上げ前に何度か漆を塗ったものを、乾燥させている制作途中の作品です。土台となる底と、胴体の部分は黒を基調とした漆、器部分は朱色の漆を塗っています。 漆を何度も塗って乾燥させるという作業を10回以上繰り返します。本当に手間暇のかかる根気のいる作業です。 漆芸学校の教員達を更に指導する熟練工の男性指導教官がいるそうです。自らの工房を持っているそうです。 その指導教官が開いている工房を紹介してくれると言うので、昼食後に訪問することにしました。 (次回へ続く)

ミャンマー 骨董品の漆器を探して バガン④

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ミャンマー 骨董品の漆器を探して バガン④ 下地作りの技術を教える教室にやってきました。 壁は淡いグリーンの色彩で、コンクリート張りの教室になっています。 日本の教室によくあるタイプの机や椅子は、1つもありません。 板敷きのテーブルの上に、バナナリーフのむしろが敷いてあります。その上に、竹ひごや制作途中の下地が置いてありました。 ミャンマー漆器の主な下地の材料は、竹だと教わりました。馬の尻尾を使うこともあるそうです。 日本の漆器は、下地に木材を使うのが一般的だったので、素材の違いに驚きました。 日本は分業制のところが多く、木地師という漆器の下地を専門に作る職人がいます。ミャンマーでは全て一人で作る様です。 教室を見ると、日本の木地師がよく使う木を削る道具や、備え付けの重機が全くありません。一体どうやって下地を作るのでしょうか。 上の写真をご覧ください。 何と小刀で竹ひごを手作業で作り、それを一つ一つ上に重ねていくことで器の形を作っていくのです。手間暇のかかる繊細な作業です。 制作方法としては、以下の手順と先生から説明を受けました。 ①まず竹を刃物で削り、竹ひごで土台となる下地を作ります。 ②下地が完成したら、漆を塗り、乾燥させる、磨きをかけるという工程を10回以上繰り返します。 ③最後に細かな装飾を手作業で彫り、場合により金箔や他の色を刷り込んで、磨いて仕上げます 竹ひごは良くしなるので、器の形状に制限はないと先生が言っていたのが印象的でした。 日本の漆器は重機を使い、ろくろや鉋を用いて作ります。もし間違って余分に木材を削ってしまうと、サイズを小さくするか、全て破棄するしかありません。 一方、ミャンマーの竹ひごを下地にする漆器では、もし下地作りで途中に失敗しても、その部分を外して補強すればいいのです。 マイペースに作ることができ、形の自由度も高いのです。 また、小刀一本で作れるので場所を選ばず、高価な備え付けの重機も必要ありません。 現地に多い竹をうまく活用した、地元の習慣にマッチした伝統工芸品だと私は思いました。 (次回へ続く)

ミャンマー 骨董品の漆器を探して バガン③

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ミャンマー 骨董品の漆器を探して バガン③ バガン博物館を見学した後、隣の建物にある漆工芸を教える学校に行きました。 教員室と思われる場所に、何人か先生がいました。まずは撮影の許可を撮るべく「日本から来た観光客です。」と挨拶しました。 英語が話せる女性の先生がいました。 ここは国立の漆器学校で、ミャンマーで伝統工芸品の漆塗り技術を継承するために建てられました。 日本の会社や漆芸の先生が、時々視察に来るそうです。日本の技術指導もあり、ミャンマーの漆器作りに役だっていると言っていました。 撮影禁止の札がないところは、自由に写真を撮って良いそうです。 優秀な生徒や、先生の作品が戸棚に展示されています。 ゴールドの蒔絵を施した、斬新なデザインの作風が目を引きました。街中で売られている安価な漆器とは全く違う、美術品としての風格を感じます。 先生が、担当している下地を制作する教室に案内してくれました。 (次回へ続く)

ミャンマー 銀細工箱の由来を探して インレー湖 銀伝統工芸品の工房②

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ミャンマー 銀細工箱の由来を探して インレー湖 銀伝統工芸品の工房② 工房の制作現場の写真です。そこで働いている従業員は、皆顔立ちがよく似ており、技術の継承が家族・親戚単位で引き継がれているのが一目で分かります。 兄弟姉妹が分業で自分の得意な工程を受け持ち、一家総力をあげて良い銀細工作品を制作していこうという意気込みを感じます。 その伝統技術を村の失業対策のため、惜しみなく村の人々に広めている姿勢は素晴らしいと思いました。 下の作品も全て手作業で作られています。鱗の一枚からパーツを組み合わせて作る、気の遠くなるような、根気のいる作業で作られた芸術作品です。 触って見ると胴体部分が、まるで泳ぎだす様に左右に動きました。胴体の中は空洞になっています。 原料の銀は、別の所から仕入れてきているのでしょうか。 加工が容易になるよう細長い形状を しています。 末っ子の女性は、手先が器用で細かなネックレスのビーズを一つずつ手作りしています。 他にも銀を糸状に細く伸ばして網目を組んで、籠(かご)の様に編んだにした小物入れも制作していました。 銀は柔らかく、加工がしやすいので打ち出し細工だけではなく、藤のかごを作るときの様に、布状に編むことができます。 また中身を空洞にしてビーズを作ったり、バリエーションが豊富に作れると説明を受けました。布の様に綺麗に編み込まれています。 作品を拡大しました。素晴らしい銀製品です。これも全て手作業です。 お目当てのアンティーク銀製品は、別の展示室にありました。 (次回に続く)

ミャンマー 銀細工箱の由来を探して インレー湖 伝統工芸の工房①

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ミャンマー 銀細工箱の由来を探して インレー湖 伝統工芸の工房① ここからは、三毛イキルが所持する骨董品、銀細工箱の由来を解明する旅の記録です。 2018年初旬、タイ側のメーソートという町から、陸路で国境を超えて、ミャンマーを旅行しました。 ネットでビザを事前に申請して、VISA決済をするタイプの一ヶ月ビザだったので、合計30日間のミャンマー滞在でした。 若い頃、タイのメーサイから一日観光ビザでミャンマーに足を踏み入れたことはありましたが、本格的なミャンマーの国内移動は、これが初めてです。 昔は陸路入国はできませんでした。ミャンマーの軍事政権が鎖国政策をとっていたからです。 私はタイから陸路で国境を越えることができるようになれば、すぐに旅行に行きたいと思っていました。 スーチー女史が政権を取り、外国人観光客誘致のため一時的に国境を解放したのです。早めに旅行しておいて良かったなと思います。 さて、本題です。東南アジアの銀工芸は、タイ北部のカレン族が作る「カレンシルバー」が有名です。 カレン族が住むミャンマー東部に何か手がかりがあるのではと目星をつけ、今回の旅で訪問しました。 ミャンマー東地域には、他にアカ族やモン族などの少数民族がいます。彼らも質の高い銀製品を作っています。 各民族固有のデザインを代々継承した伝統工芸品だけでなく、それを現代風にアレンジして国内外の観光客に販売する工房がありました。 世界遺産インレー湖をロングボートで観光した際に、銀細工工房があったので、紹介したいと思います。 ①湖面に浮かぶミャンマー寺院 ②銀細工職人の工房 工房の中に入り、経営者の男性と会話しました。家族経営で代々、銀細工を作ってきたそうです。 今では、働き口のない地元の若者を雇って観光客向けに新製品を販売しているそうです。工房の責任者は、彼のお父さんでした。 彼は50年以上、銀細工を政策してきたベテランです。 ③銀細工の制作現場 「熟練工の父親に、三毛所持の銀細工箱裏面の写真を見せました。下の文字は、現在のミャンマー文字に近いが、全ては判別できないと言われました。 一部は数字を表しているとのこと。銀細工箱が制作された年代の可能性が高いのではないかとの指摘を受けました。」 制作工房の横の部屋は、ギャラリーになっていて観光客向けにシルバーアクセサリーを販売する売り場がありました。 (次...