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ミャンマー 個性的な野良猫

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ミャンマー 個性的な野良猫 ミャンマーの漆器編が終了しました。野良猫シリーズの第2弾です。 長い文章はありません。猫好きの皆さん、本能でお楽しみください。ミャンマーの猫です。 ①カメラを睨みつける猫 「トイレするところ、盗撮するなよ。」 ②露天の敷物の上で眠る猫 触っても全く起きない、マイペースな猫 ③仏教寺院のタイルで涼む妊娠中の猫 「あんた、誰? 私にちょっかい出さないでよ。」 ④仏教寺院の祭壇の前で、カメラに興味津々の茶トラ 「僕、かっこいいでしょ。上手く撮ってよね。」

ミャンマー 骨董品の漆器を探して バガン⑩

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 ミャンマー 骨董品の漆器を探して バガン⑩ この桶の持ち主は、彼女の祖母でした。いつ頃からあるものか、孫でツアーガイドをしている女の子に通訳してもらい、祖母に質問しました。 すると、祖母は糸繰車の手を休めることなく、30年〜40年ほど前に、親戚の漆器職人から貰ったものだと言いました。 この桶は、骨董品の定義である100年以上前のものではありませんでしたが、紛れもなく由来のわかる一点物です。 実用性を兼ね備えたヴィンテージ品としての価値が十分にあります。日本人である私の感性に合った逸品であると判断しました。 しばらく織物や農作物に関する雑談をして、家族と仲良くなると、祖母が私のことを聞いてきました。 日本から来たこと、骨董収集が趣味なこと、漆器作りが盛んなバガンで一日中良い骨董品探したが見つけることができなかったこと。 そしていくつかの偶然が重なって「たった今」、その逸品に出会えたこと、を祖母に伝えました。 彼女は黙っていましたが、微笑んでいました。普段使いの漆器を日本人から褒めてもらったことがとても嬉しいようです。 そこまで欲しいのならと、私にこの漆器を売ってくれました。 彼女との出会いに感謝して、この漆器を譲ってもらえたお礼に、十分な対価を米ドルで支払いました。 この漆器は、私の実家の台所にあります。家庭菜園のキュウリやトマトなど農作業の収穫物を入れる器として、とても重宝しています。 思いがけない偶然と地元人との交流が骨董というモノに魂を吹き込む、それが思い出となって骨董を更にいとおしむ。名のある伝来品でなくても、思い出の詰まった逸品をいつも手元に置いて、当時のことを思い出しながら大切に使う。骨董探しの旅の醍醐味だと思います。 (終)

ミャンマー 骨董品の漆器を探して バガン⑨

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ミャンマー 骨董品の漆器を探して バガン⑨ 彼女の家に招待され、家の中へと入りました。 周りの農家と同じように通気性に富んだ、平屋建ての木造家屋です。 作りは母屋と台所の2部屋です。彼女は、レンガ作りの竃(かまど)にある薪に火をつけて、鉄瓶でお茶を出すためのお湯を沸かしています。 母屋では彼女の母親と祖母が、収穫した綿花から糸を作る糸繰りの作業をしています。作った糸は、自然の染料で染めるのだそうです。 使用されている糸繰車は、日本の江戸時代から使われてきた物と同じ形をしています。左手で糸車を回しながら、右手に持った綿花から糸を一本の線にして、木枠に巻き取る構造です。 戦前の日本で見られた懐かしい光景だなと思いながら見ていたところ、部屋の奥に年季の入った漆器が置かれていることに気づきました。 ちょうど私の目に止まった瞬間の写真です。思わずシャッターを押しました。 簡素で何の装飾もない、バケツを一回り小さくしたような日常使いの漆器です。 長年使い込まれて、表面の赤漆がすれています。地肌の黒漆が見えており、和歌山県の根来塗りに似た、何とも言えない風格が漂っています。 大きさは両手で抱えられるぐらいの桶でした。中には細かな木屑を干したものが、入っています。 この木屑を熱湯で煎じて、着色をするそうです。 突然脳みそからアドレナリンが出て、私の物欲を刺激しました。これ欲しい!と思いました。 (次回へ続く)

ミャンマー 骨董品の漆器を探して バガン⑧

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ミャンマー 骨董品の漆器を探して バガン⑧ 骨董品の漆器は、どこに眠っているのでしょうか。 街中を隈なく探しましたが、バガンでは骨董品の漆器を扱う店を見つけることはできませんでした。 翌日にマンダレーに戻ろうか、私は迷いながら宿に戻りました。 結局あと一日バガンに滞在することにしました。宿の黒猫が可愛くて、私に懐いてくれたのです。猫がいる宿は、居心地が良いのです。 今考えると、この黒猫が私に骨董に出会うチャンスを与えてくれました。骨董品の漆器は私が思いもしないところにあったのです。 バガンの郊外の屋台で、朝食にモヒンガーという麺料理を食べていると、「日本人ですか?」と片言の話しかけてくる若い女性に会いました。 彼女は「地元の高校生で、欧米ツアーガイドのアルバイトを時々しています。お願い事があるんですけど。」と私に言いました。流暢な英語が話せるようです。 「日本人ツアー観光客からチップに日本の硬貨がもらえることがあります。それが1000円ほどの纏まった額になったので、ミャンマーのお金(チャット)に変えてもらえないでしょうか?」 大した額ではないので、快く良いレートで両替してあげました。すると彼女はお礼に自分の村を案内してくれるとのこと。 私はバックパッカーで時間に融通がきくし、村も近くなので行ってみることにしました。村は屋台から3キロほど離れた郊外にありました。 赤い木の実を庭に干しています。壁が藤で編まれた平屋建ての民家です。 別の民家です。風通しの良い、陽気で開放的な平屋建ての民家です。彼女のおじさんが夫婦で住んでいました。 どの家族も、民家の隣に牛を2頭飼っています。田んぼや畑を耕す際の動力源ともなり、農作業に欠かせないとのことでした。 牛の首にかかっている黄銅の鐘が、カランカランと心地よい音でなっています。 本当に気持ちの良い農村です。 (次回へ続く)

ミャンマー 骨董品の漆器を探して バガン⑦

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ミャンマー 骨董品の漆器を探して バガン⑦ 下塗りの後に、手彫りで細かな彫刻を施し、仕上げの塗料を塗るのがバガン漆器の特徴です。 指導教官が目の前で、彫刻の実演をしてくれました。長年の経験で、頭に思い描いた絵柄を思い通りに彫刻します。迷いなく動き、下絵は一切ありません。 ミャンマー人指導教官の年季の入った両手の指が、物を作り出す手が凄みを感じます。改めて写真を見ると、ものづくりの職人は素晴らしいと感じました。 日本の香川県の伝統工芸品である香川漆器が、同様の蒟醤(きんま)技法を用いています。 この工房では小物の漆器では、20ドル位からありました。ミャンマーの伝統を生かした自然素材や、制作の手間暇を考えると、この値段は安いと思います。 街中の土産店で売られている10ドル以下で買える、妙にテカテカ光る安っぽい塗料のミャンマー漆器とは全く質感が違いました。 バガン漆器の伝統が、国立学校の設立で後の世代に継承されている事実を目の当たりにできました。 残念ながら、この工房では骨董品の漆器販売はありませんでした。 感謝の気持ちも込めて、蒟醤漆器を何点か購入して、工房を後にしました。 (次回へ続く)

ミャンマー 骨董品の漆器を探して バガン⑥

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ミャンマー 骨董品の漆器を探して バガン⑥ 指導教官のミャンマー人漆芸家が開いている工房に行きました。 場所はバガン市街の街道沿いにありました。観光客向けに商品を展示してある平屋建ての商店と、教官家族が暮らす自宅が2軒並んで建っています。 外国人観光客のバスが停車できるように、駐車場も備えた大きな敷地でした。 漆芸学校の先生からの電話で、私の訪問連絡を事前に快諾してくれた指導教官本人が応対してくれました。 50歳ぐらいの老眼メガネをかけた細身の男性です。知的な顔つきで、ミャンマー伝統の男性用布スカートであるロンジーを見事に履きこなしていました。 日本の着物もそうですが、民族固有の衣装を普段使いしている人は、本当にかっこいいと思います。 店舗の一角に漆器製作のブースが設けられていました。 作りかけの漆器が手順ごとに並べられて、外国人観光客向けに説明しやすいように展示されています。 写真左上に砂岩とそれを砕いた粉が灰色のプラスチック容器に入っています。 ミャンマーの伝統的な漆器には、下地に粘土質の土と木屑、漆を混ぜてものを最初に下地に塗っていきます。 写真左下の工程の始まりとなる、下地が竹でできた器にご注目ください。一番底の部分に穴が空いています。 塗料を塗った後、底に溜まった余分な塗料を、穴から自然に排出できるように、指一本分の空洞が残っています。 この工房の器は10回の塗り工程を経て作られています。下の段の左から右に行くごとに、塗りの回数が増えていきます。 中段の右から左にかけて凹凸がなくなって、表面が研ぎ澄まされているのがわかります。 中段の左から2つは最後の仕上げの部分で、上質な黒漆を塗ってあります。そして完成です。 どのくらいの期間が必要なのか指導教官に尋ねたところ、器の大きさと素材によって微妙に異なる。 この竹素材の器だと塗りの都度、乾燥させる必要があるので1ヶ月ほどかかると言われました。 本当に根気のいる作業です。 (次回へ続く)

ミャンマー 骨董品の漆器を探して バガン⑤

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ミャンマー 骨董品の漆器を探して バガン⑤ 教室の奥にある棚に、竹で編んだ下地の完成品が並べられていました。 花瓶状の下地が3つ、皿状の下地が50枚以上重ねられています。 接着した部分を乾燥させ、硬く丈夫にさせることで下地を強化しているようです。 それから塗りの作業となります。 上の作品は仕上げ前に何度か漆を塗ったものを、乾燥させている制作途中の作品です。土台となる底と、胴体の部分は黒を基調とした漆、器部分は朱色の漆を塗っています。 漆を何度も塗って乾燥させるという作業を10回以上繰り返します。本当に手間暇のかかる根気のいる作業です。 漆芸学校の教員達を更に指導する熟練工の男性指導教官がいるそうです。自らの工房を持っているそうです。 その指導教官が開いている工房を紹介してくれると言うので、昼食後に訪問することにしました。 (次回へ続く)

ミャンマー 骨董品の漆器を探して バガン④

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ミャンマー 骨董品の漆器を探して バガン④ 下地作りの技術を教える教室にやってきました。 壁は淡いグリーンの色彩で、コンクリート張りの教室になっています。 日本の教室によくあるタイプの机や椅子は、1つもありません。 板敷きのテーブルの上に、バナナリーフのむしろが敷いてあります。その上に、竹ひごや制作途中の下地が置いてありました。 ミャンマー漆器の主な下地の材料は、竹だと教わりました。馬の尻尾を使うこともあるそうです。 日本の漆器は、下地に木材を使うのが一般的だったので、素材の違いに驚きました。 日本は分業制のところが多く、木地師という漆器の下地を専門に作る職人がいます。ミャンマーでは全て一人で作る様です。 教室を見ると、日本の木地師がよく使う木を削る道具や、備え付けの重機が全くありません。一体どうやって下地を作るのでしょうか。 上の写真をご覧ください。 何と小刀で竹ひごを手作業で作り、それを一つ一つ上に重ねていくことで器の形を作っていくのです。手間暇のかかる繊細な作業です。 制作方法としては、以下の手順と先生から説明を受けました。 ①まず竹を刃物で削り、竹ひごで土台となる下地を作ります。 ②下地が完成したら、漆を塗り、乾燥させる、磨きをかけるという工程を10回以上繰り返します。 ③最後に細かな装飾を手作業で彫り、場合により金箔や他の色を刷り込んで、磨いて仕上げます 竹ひごは良くしなるので、器の形状に制限はないと先生が言っていたのが印象的でした。 日本の漆器は重機を使い、ろくろや鉋を用いて作ります。もし間違って余分に木材を削ってしまうと、サイズを小さくするか、全て破棄するしかありません。 一方、ミャンマーの竹ひごを下地にする漆器では、もし下地作りで途中に失敗しても、その部分を外して補強すればいいのです。 マイペースに作ることができ、形の自由度も高いのです。 また、小刀一本で作れるので場所を選ばず、高価な備え付けの重機も必要ありません。 現地に多い竹をうまく活用した、地元の習慣にマッチした伝統工芸品だと私は思いました。 (次回へ続く)

ミャンマー 骨董品の漆器を探して バガン③

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ミャンマー 骨董品の漆器を探して バガン③ バガン博物館を見学した後、隣の建物にある漆工芸を教える学校に行きました。 教員室と思われる場所に、何人か先生がいました。まずは撮影の許可を撮るべく「日本から来た観光客です。」と挨拶しました。 英語が話せる女性の先生がいました。 ここは国立の漆器学校で、ミャンマーで伝統工芸品の漆塗り技術を継承するために建てられました。 日本の会社や漆芸の先生が、時々視察に来るそうです。日本の技術指導もあり、ミャンマーの漆器作りに役だっていると言っていました。 撮影禁止の札がないところは、自由に写真を撮って良いそうです。 優秀な生徒や、先生の作品が戸棚に展示されています。 ゴールドの蒔絵を施した、斬新なデザインの作風が目を引きました。街中で売られている安価な漆器とは全く違う、美術品としての風格を感じます。 先生が、担当している下地を制作する教室に案内してくれました。 (次回へ続く)

ミャンマー 骨董品の漆器を探して バガン②

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ミャンマー 骨董品の漆器を探して バガン② 敷地内には建物が3棟ありました。その1つは漆器博物館という建物です。 博物館の至宝はミャンマー仏教の経典です。写真撮影は可能でした。 これが経典。後ほど解説文を読むことにします。建物入り口に来ました。 入り口上部に漆器博物館という表示があります。黒地にゴールドの沈金が施された綺麗な看板です。 展示品はまだ少ないです。その多くはミャンマー漆器特有の仏塔をかたどった蓋がついた漆器です。 ミャンマー仏教の経典「カンマワーザー」一巻が展示されていました。一巻揃っているのは最近では珍しいと思います。経文を束ねる文字入りの赤い帯も付属されていました。 左側に説明文が英語で書かれていました。この経典に関しての解説です。 「経典を作るにはまず、貝葉に朱色の漆塗りをする。その後、裏表に金箔を押し、黒漆で経文を書くそうだ。 文字はパーリ語、ビルマ文字、シンハラ文字など上座部仏教を信じる民族の文字が使われる。これはビルマ文字と推測されるが、現代の書体とは異なる。」 私も20年以上前に、上の写真と同じ書体の経典をタイ北部の骨董店で入手しました。現在も貴重なコレクションとして、自宅に保管しています。 今回の旅で、経典の帯があるのがわかり、新たな発見がありました。 (次回へ続く)

ミャンマー 骨董品の漆器を探して バガン①

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ミャンマー 骨董品の漆器を探して バガン① バガンはマンダレーから、南西に180Km離れた距離に位置し、大型バスだと6時間ぐらい移動に必要です。 でも、外国人観光客に人気の都市のため、ミニバスやタクシーが多くあり移動手段には事欠きません。 私はホテルで予約したミニバスを利用し、ホテルでピックアップしてもらい、5時間程で着きました。 早速、宿に荷物を預け、自転車を借りて郊外に出ました。 パゴダの高台に登ると、木々の間から上の写真のように仏塔が物凄い数でそびえ立っています。 パゴダの入り口にあった解説文です。 「バガン遺跡はアンコールワットやボロブドゥールと共に世界三大仏教遺跡の一つとされ、ユネスコの世界文化遺産に2019年指定された。 上の仏塔は13世紀に建てられたものであり、仏塔の数は全部で3000を超えると言われている。」 私は骨董を探す前に、現代漆器の製作現場を見てみたいと思いました。 バガン博物館に、ミャンマー漆器の伝統工芸を教える職業学校があると聞きました。 学校はバガン博物館の敷地内にある様です。入り口の門に到着しました。立派な門構えです。 (次回へ続く)

ミャンマー 骨董品の漆器 マハムニ寺院

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ミャンマー 骨董品の漆器 マハムニ寺院 私は若い頃、重く落とすと割れてダメになる焼き物には関心がありませんでした。ようやく最近、使い込むほどに化ける陶器の魅力がわかってきた感じです。 それよりも、落としても割れない漆器の方が好きです。私は丈夫で軽く、光沢がある器が好きなんです。 ミャンマーでは銀細工の他に、伝統工芸として漆器製作も盛んです。土産物店では観光客向けに安価な漆器が大量に売られていました。 骨董品でも、金箔や彫刻が施された多種多様な漆器があります。 上の写真は、マンダレーのマハムニ寺院の宝物庫に展示されている漆器です。色絵彫りのある漆器、朱塗りや黒塗りの漆器が多いように感じます。 更に金箔を表面に被せた漆器が、最も格式が高い器でしょう。 現在、最も漆器が盛んに作られているのは、パゴダで有名な世界遺産の街バガンだと聞きました。 マンダレー観光が終わった後に、パガンに行きました。 (次回へ続く)

ミャンマー 可愛い野良猫

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ミャンマー 可愛い野良猫 今日はゆる〜い内容です。 三毛ブログの裏テーマである海外野良猫写真の掲載です。シリーズが終わるごとに、猫タイトルをアップしていきます。長い説明はなしです。 猫の写真(ミャンマー編)をお楽しください。 高床式古民家にいた三毛猫、耳たぶが広いです。暑い国ですから・・・ 一緒にいた兄弟猫、やはり耳が大きい。 お寺の中庭、冷んやりしたタイルの上でお昼寝。 ボス猫の茶トラ雄「悩み事があるのか?よし、わしが話を聞こうか。一肌脱いでもいいぞ。」 (終わり)

ミャンマー 銀細工箱の由来を探して マハムニ寺院の銀細工骨董品③

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ミャンマー 銀細工箱の由来を探して マハムニ寺院の銀細工骨董品③ マンダレーでは中央市場近くの6階建ての小さなホテルに止まっていました。屋上が吹き抜けのレストランになっており、毎朝無料の朝食が出ます。 そのホテルのオーナーが、骨董収集家で私が長期滞在していたこともあり、仲良くなりました。日本にも何度か旅行したことのある親日家です。 三毛の趣味は海外旅行と骨董収集だと言ったところ、事務所の金庫にあった彼の収集物を少し見せてもらいました。 その金庫には金塊や金象嵌の骨董もあり、さすがミャンマーの金持ちは格が違うなと思いました。 彼は両替商も兼ねており、質屋の様な商売もしているのでしょう。 昼間は地元のバイクタクシーが、外国人観光客からもらった米ドルをミャンマー通貨に替えてもらうために、ホテルのフロントに来ている光景をよく見ました。 「骨董品は、裕福な国や人に行きやすい」という格言は真実だと思いました。 彼に下にある写真の彫刻を見せました。 彼もまた、現代のミャンマー文字とは違うが、いくつかの文字は数字だと思う。 この箱が作られた年代を表しているのではないかと言っていました。 名家が生活のために手放したか、仏教寺院のパゴダに収められていたものが、何らかの事情により、国外に流出したのだろうとのこと。 これほど質の良いものは、今のミャンマーではもはや手に入らないと言われました。 「今回の旅で、マハムニ寺院の宝物庫にある銀細工箱と、銀細工職人・現地コレクターの見方を 総合すると、三毛所持の銀細工箱はマンダレーの制作工房で作成された物の可能性が高い。裏 のキマイラ図柄はビルマ王室お抱え職人の工房で制作されたことを示すホールマーク、右下の 数字は制作された年代を示しているのではないかというのが、私の意見です。」 骨董業界のプロの方や、学術関係者の方がいらっしゃいましたら、その見識をコメント覧からお気軽に教授ください。 以上で、銀細工骨董品の由来を探すミャンマー の旅シリーズは終わります。 (終)

ミャンマー 銀細工箱の由来を探して マハムニ寺院の銀細工骨董品②

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ミャンマー 銀細工箱の由来を探して マハムニ寺院の銀細工骨董品② マハムニ寺院の宝物庫に、20個ほど展示されていたミャンマーの銀細工箱「Silver Betel Container 」。 その中で、三毛が最もクオリティが高いと感じた逸品がこれです。 半月状の形をしており、上蓋の部分には花柄が中央に、その周囲を粒状の飾りが三重に取り囲んだデザインをしています。 一番外側の飾りは花の蜜を吸う鳥を表現している様です。 側面には、ツタをモチーフにした図柄の唐草文様。ツタの隙間から、何かの動物が描かれています。ネズミに少し似ていますね。 展示物のため、箱の裏側や底の部分はよくわかりませんでした。そういえば、これと同じ図柄は、三毛所持の銀細工箱にもありました。 この半月状の箱は、私の持っている蓋が完全に取れるタイプではなく、裏側に針金状の留め金があって180度、真後ろに開くタイプだと思います。 この小箱が三毛がミャンマーで見た中で、最も美しいと感じた銀細工の骨董品でした。 (次回へ)

ミャンマー 銀細工箱の由来を探して マハムニ寺院の銀細工骨董品①

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ミャンマー 銀細工箱の由来を探して マハムニ寺院の銀細工骨董品① 実用品に近い、銀製品の生活骨董に関する展示コーナーです。 これはビルマの王族や富裕層が使用した食器やアクセサリー、置物のコーナーです。 銀の食器やスプーンの他に、三毛が所持しているキンマ入れの銀細工箱も、20個ほど展示してありました。 ルビーの様な赤い宝石で飾られた、うちわ状の銀製品が最上段に3点あります。 日本のうちわは、下の画像ラベル①番のような取っ手が真下についた卓球のラケット型が一般的です。 ミャンマーやインドを含む南アジアでは、上の写真にあるラベル③や④のうちわが一般的です。 軸を左右にずらして木製の取っ手棒をつけ、その棒を回すことで、団扇が遠心力で周囲360度に風を起こす仕組みです。 ミャンマーでは両方のタイプの団扇が、昔から存在したということでしょうか。庶民が今でも使用する団扇は布や紙、麻が材料です。 これは団扇の部分も小さく、銀製なので全く実用向きではなく、室内装飾用や副葬品として作られた可能性があります。 透し彫りの細工が本当に見事です。 上の写真、鶏の置物もありました。左下のキンマ入れは、側面に彫りがなく簡素な作りですが、作られた年代はかなり古く、19世紀中頃の作品と思います。 (次回へ続く)

ミャンマー 銀細工箱の由来を探して マハムニ寺院の鞘(さや)②

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ミャンマー 銀細工箱の由来を探して マハムニ寺院の鞘(さや)② 当装具コーナーの一角は、短剣の外装に関する展示がありました。 形状から、上の2つは片刃、下の2つは両刃を収める鞘と分かります。一番下のダガーは、本身が出ていた唯一の展示物で曲線の形状をしています。 敵の曲刀を受け流すパリングダガーか、急所を一撃できる様に刺突に適した殺傷力の高い両刃のダガーです。柄の部分は、鹿の角の様に見えます。 よく見ると中央の下側に、小さな鉄の輪が付いています。最初見たときは銃剣としてライフル銃の先に付けられる様にしてあるのかと思いました。 銃に装着する鉄輪があまりに小さいことから、どうも違う様です。紐を通した後に、何処かに吊り下げて使用したのでしょうか? 想像力が掻き立てられます。

ミャンマー 銀細工箱の由来を探して マハムニ寺院の鞘(さや)

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ミャンマー 銀細工箱の由来を探して マハムニ寺院の鞘(さや) 隣のブースは、ミャンマー王族男性の当装具に関する展示コーナです。金象嵌やシルバーを中心とする貴金属で装飾された武具外装の鞘がずらりと並んでいます。 日本刀のような、弓なりの形の鞘ですね。一般的な日本刀の長さである、2尺3寸よりも身幅や鞘が長い印象を受けます。 この刀身(本身の部分)そのものの展示は、ありませんでした。ミャンマー刀剣の鉄の素材や波紋も見たかったのですが、残念です。 一番手前にある刀剣は銀の彫刻が施されています。重量感がありそうですね。実戦向きではなく王族が儀式の際に使用する、儀礼用の剣だと思います。 一部は象牙が使われており、柄の部分まで銀細工の彫刻が施されています。 展示してあるビルマの刀剣は、持ち手の柄部分が、日本刀に近いタイプと、剣道の竹刀のように丸い棒状になっているタイプの2種類あります。 これが個人的には興味深いところです。柄が丸いと、実際に刀を振った時に刃先がぶれて、実戦でうまく切ることが困難なような気がします。 バランスや振り具合は、実際のところ、どうなんでしょうか? (次回へ続く)

ミャンマー 銀細工箱の由来を探して マハムニ寺院の銀容器②

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ミャンマー 銀細工箱の由来を探して マハムニ寺院の銀容器② パンと呼ばれる銀細工の入れ物、桶の器の続きです。 これは、寺院で仏様に捧げるお供え物や、マンダレー朝の王族が宗教行事の際に使用したのでしょう。 タイやミャンマーでは托鉢の僧侶がこれに似た形の、金属器を両手に持って托鉢に出ている場面を、よく見かけます。 現代の僧侶が使用している托鉢器は、鉄かステンレス製です。 豪華な彫刻は一切なく、一枚の金属をひたすら叩いて、器の形に打ち延ばした簡素な作りとなっています。 44番の青いシールが貼られた銀の入れ物は、その側面にビルマの干支が描かれています。 中央にある四角い窓、右から2番目に見えるニワトリは、今にも窓から飛び出しそうなほど見事で、精緻な打ち出し細工が施されています。 上の写真、三毛が所持している銀細工箱にも同じようなデザインがありました。箱の側面部分にある干支の彫刻です。 裏面のキマイラの彫刻や、側面の干支デザインが宝物庫の銀の桶のデザインと酷似しています。 これで、私が20年以上前に入手した銀細工箱の由来が、ほぼ解明できました。 三毛所有の銀細工箱は、マンダレーの地で宝物庫の銀細工と、同じ職人工房により制作されたものと推察できます。 1998年のアジア通貨危機では、ミャンマーやラオスなど、タイ経済に依存していた周辺諸国の被害は、より深刻だったと記憶しています。 ミャンマーの農村では、生活苦のために娘を人身業者に売り渡す事例も続出しました。 三毛所有の銀細工箱はその頃にミャンマーの寺院関係者か、富裕層が家族の生活のために骨董品を売却。 それが骨董ディーラーを経て、より高額な値段の付く隣国タイの骨董業者に流出。 その直後の時期に、タイを旅行していた外国人の三毛に所有者が移ったのだと思います。 骨董品が安住の地を求めて、世界中で自分を守ってくれそうな持ち主を探している様にも見えます。 (次回に続く)

ミャンマー 銀細工箱の由来を探して マハムニ寺院の銀容器①

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ミャンマー 銀細工箱の由来を探して マハムニ寺院の銀容器① 貴金属で作られた宝物の展示コーナーがありました。 仏教を手厚く信仰するミャンマーの人々が、マハムニ寺院に寄進した貴重なお宝が、きれいにに展示されています。 説明文によると、これは「Pan (パン)」という銀の入れ物です。 水桶でしょうか?托鉢のお坊さんが両手に持つ鉢に形が似ています。 「パン」と呼ばれる銀細工に関する解説です。 8世紀から9世紀に現在のビルマ族により、征服された少数民族であるピュー族の金属加工技術やデザイン文様は優れていた。 それを現地に定住したビルマ族の金銀細工師が学び、伝統を継承した。 その後、王室お抱え職人を中心に、優れた技術が世襲制で何世代も継承され、現在に至る。 よく見ると三毛所持の銀細工箱と同じような絵柄(キマイラ、鵺)が、底の裏にありました。 これは、制作工房のトレードマークなのか?はたまた、所有者が掘らせたのか? ぬえがミャンマーでは悪魔と捉えられ、底の裏にそれを掘ることで、日常的に災いを退治する意味合いがあるのか? とても興味深いです。 (次回に続く)